「わたしとサッカーとRAJ」の
思い出
「わたしとサッカーとRAJ」の思い出
私、木村孝行は令和6年6月21日RAJ社員総会をもってRAJ社員(中国地域理事)の役を退任いたしました。在任は二期4年の長いようで短い期間でしたが、皆様のご協力とお支えにより無事任務を終えることができありがたく感謝しています。これまでサッカー特に審判という分野を通して体験したこと、感じたことを記述してみます。何らかの形で皆さまのお役になれば幸いです。
1984年その年の1級審判員研修会の中で当時のJFA浅見俊雄審判委員長が視察で訪れていたイングランドの報告の中でイングランドの審判制度には審判ライセンスとは関係なく登録審判員として平等にサッカーを楽しんだり語り合える独自の組織が存在していて審判仲間が試合の後等でお互いに意見を言い合って議論しあっていることが紹介され早速、浅見俊雄氏、永嶋正俊氏、西旬一氏等が中心となって「日本サッカー審判協会(RAJ)」が発足したと記憶していて、早速当時の1級審判員のほとんどの方が入会されて組織化されました。先般、会員の皆さんに“ホイッスル創刊号PDF版”がメールで配信されましたが再度冒頭の記事を紹介します。
創刊によせて
日本サッカー審判協会
暫定理事会代表永嶋正俊
私達の日本サッカー審判協会の会員仲間の機関誌“ホイッスル”の創刊に当たって一言ご挨拶申し上げます
数年前から一級審判員研修会の折などに,審判委員会とは違った立場で審判技術の向上と審判員相互の親睦を図り,サッカーの興隆発展に役立つ”私達審判仲問の団体を組織することの是非”について話し合ってきました。準備委員各位のおカ添えにより,昭和59年7月幻日に200余名の発起人のご賛同を得まして設立総会が開かれ,参会者全員の賛成で“日本サッカー審判協会(The Referees’ Association of Japan.略称RAJ)”の創設をみましたことは御同慶に耐えません。
私達の審判協会の主な活動は,会員相互の審判技術の研修と親睦ですが,この活動を支え,全会員の交流の場となるのか機関誌”ホイッスル”で,発行のもつ意味は非常に大きなものがあります。内容は,ルールの改正や解釈,諸外国の審判関係のニュース, FIFA審判員の国際競技会参加報告,現役審判員の意見や志気の表明, 0Bからの助言や懐旧の言葉,各種審判研修会の報告,スポーツ医科学の情報,会員の活動や消息などが考えられますので,各位か自分なりに理解し活用いただけるものと存じます。反面この“ホイッスル”は私達の機関誌ですので,多くの会員仲問からのこ意見や投稿によって大きく育てていきたいと考えています。是非ご協力いただきたくお願いする次第です。
1978年にRAのThe Instluctors Course of Refereesに参加したとき,紳士諸候がRA の会員であることを誇りにし,得意気にRAのネクタイ,タイヒン,バッジを身につけ, トラックスーツを着用し,審判服から審判用具までRAで求めていたのには驚きでした。RAを通じて審判員を育み,和気藹々の信頼関係での相互研鑽・審判技術の向上に努めていたのは羨ましい限りでした。いつの日か日本のサッカー審判関係者もこのようにありたいものとWalsoleのタ陽を眺めていたことを想い出します。
私達審判協会の会員全員が,日本サッカーのあるべき方向性を位置づけているのだという 自負と責任感をもち,審判委員会の活動と相携え,審判の任をより優れたものにしようでは ありませんか。“ホイッスル”の充実発展がRAの発展興隆となり,RAの発展興隆がより優れた審判員を育み,日本サッカー界の隆盛に結びつくことを念じつつ挨拶といたします。
そしてホイッスルVOl40①の記事と重なりますが、1984年7月21日(土)渋谷・岸記念体育会館において57名の発起人が参集され設立総会が華やかに開催された記録がありました。
会員名簿が2001年と2003年3月30日に冊子として発行されていますが2,000名を超す会員が掲載されています。
岡山県においては。RAJ発足時50名を超す方々が入会されていて、RA県会長に田辺剛造先生が。県幹事に田中雅彦氏が就任され発足会を岡山市内の旅館で行い30名を超す方が参加して盛大に行われた写真が残っています。
「RA岡山県支部」設立総会 (於岡山市) 月日不明
RA中国の運営は中国理事を中心にFA中国審判長、各県理事の方々でRA中国理事会として行われてきました。中国初代理事には現在のサンフレツチェ広島の前身マツダサッカー部で活躍された沼野博氏。中国審判長を長年務められた飯田文男氏、中国初代1級審判員の工藤大太郎氏が務められ、 在任期間が20年を超してお世話いただいた岡部寿美夫氏、JFA全国地域審判委員長会の代表も務められた綱島四郎氏から2020年に私木村が引き継いできました。
RA中国交流試合と交流懇親会についての記述です。
1995年頃島根県の和崎浩修審判長と広島県RA理事の上田守氏の発案で始まったと聞いています。
私が初めて参加したのは1997年12月益田市での開催でした。おりしも当日は日本が初めて出場した1998年のフランスW杯の組合わせ抽選日だったことを鮮明に記憶しています。当然ですが夜の懇親会はその話題で盛り上がりました。組み合わせは初戦アルゼンチン、二戦クロアチア,三戦ジャマイカで
結果は三戦三敗は皆さんご存じの通りです。
その後、2000年/山口市、2001年/広島揚倉山、2006年/山口県大島、2007年/灘崎倉敷市、2008年/鳥取市バードで開催されそれ以降は広島市に固定され開催されるようになりました。
2018年には、当時の中国理事の綱島四郎氏のご尽力により広島市において「RAJ全国交流会」が全国から大勢の参加者をお迎えし盛大に開催されました。
コロナ感染症の影響でそれまで毎年開催していた「中国審判関係者交流懇親会」が2020年度と21年度の2年開催出来ませんでした。残念ですが仕方ない状況だったと思います。
2022年RAJはアンケートを実施し法人化と組織改革に向けて大きく前進していくこととなりました。私は図らずも法人化委員会(7名)の一員として参加させていただいたことは、役目を果たせたかどうか?自信はありませんが光栄なことだったと感謝し嬉しく思い出として残っています。RAJは社員・理事の方々をはじめとして充実した立派な組織として生まれ変わり今後の活動が楽しみで夢が膨らむ思いがしてきます。
法人化として登記が完了した2022年12月北九州市小倉において3年ぶりとなる「RAJ全国交流大会」が開催され多くの方々が参加されました。その中に隣県の山口県から18名の方々に参加いただきました。山口県は福岡県の隣県で他の県より小倉には近いという利点はありますが、参加していただいた方々と取りまとめいただいたRA山口大井理事のご尽力には感謝!感謝!の気持ちがいっぱいです。
昨年2023年11月に石川県和倉温泉で開催された「RAJ全国交流大会」に参加させていただいた。北陸には会社の仕事やアセッサーとして度々訪れたことはありますが和倉温泉には初めての訪問となりました。館内で迷子になりそうな大きな立派な旅館と徒歩で5分ほどの距離にある人工芝3面のサッカー場は立派としか言いようがないくらいの施設でした。手の込んだ料理と進行で楽しい懇親会を過ごした旅館が1月1日の能登地方地震で大きな被害を受けたとのニュースに声を失うほどのショックでした。復興までに前途多難なことと想像しますが一日も早い当時の賑わいと施設の復興を願わずにはおれません。
最後に私のサッカーとの関わりとこれまでについて記します。私がサッカーを始めたのは中学2年のときからで仲の良かった友達が入部していたからでした。部活動の練習は週に数日で遊びの延長に近いものでした。サッカー部のなかった高校に進学しサッカーは続けられないと思っていた矢先、サッカー部が誕生し(1年間は部としてでなく同好会としての活動だったが)入部しました。高校時代はこれといった実績もなく1回戦ボーイの域を脱せなかった。高校3年の時、主将を任されたが成績を残せず悔しい1年間でした。卒業後入社した会社にサッカー部があることは知っていましたが直ぐには入部しないで約半年は遊んでいました。秋になって急にサッカーがしたくなって「入部させてください」とお願いに行ってサッカーを続けることとになりました。この時は今の年齢までサッカーに関わりを持つようになるとは夢にも思ってみなかったです。会社のサッカー部はまずまずのレベルにあって会社の好景気もあって部活動に対する理解と援助も拡大し環境は急に改善していきました。
昭和40年、県内に「県社会人サッカーリーグ」が誕生し練習にも力が入るようになりお陰様で昭和48年に「中国サッカーリーグ」が誕生するまでの8年間で7度県内優勝をすることができた。この間、国体予選に出場する県選抜チームの主将を2年任されたが残念ながら2年とも中国予選で山口県選抜に負けて本大会には出場できなかった。国体出場が目標のチームだったので非常に残念な気持ちでいっぱいでした。
昭和48年現役引退後、なんとなく始めた審判とのかかわりが生涯を通じての生き甲斐になることも予想だにしていなかった。昭和50年審判資格を取得し以後毎週のように週末はどこかで審判をするようになりました。
昭和53年1級審判員を受験し幸いにして初めての受験で合格することができた。選手としては叶わなかった国体への参加が審判員として可能となったことは一番の喜びでした。1級審判員としての15年間で11回国体に参加させていただきました。
現役審判員としての最大の思い出はJリーグ開幕前年の平成4年11月下関市でJリーグプレシーズンマッチ「レッズVSフリュゲルス(マリノスと合併)」があり主審を仰せつかり、南さん、田辺さん、大井さんとのコンビで行いました、試合は何とか無事終了しましたが緊張と選手のコントロールで終わったらヘトヘトになりました。(その時の思い出の写真です)
「平成4年11月15日 下関陸上Jリーグプレシーズンマッチ」
(平成4年11月15日Jリーグプレシーズンマッチ、下関陸上競技業、左から二人目筆者)
平成5年Jリーグ開幕の年をもって1級審判員を退任し、県審判長として平成17年「岡山国体」の準部に向けた取り組みに県協会一丸となって対応することとなりました。大会は9月の残暑厳しい中での開催でしたが「岡山国体サッカー競技」は多くの方々のご協力をいただいて無事開催を終えることができました。
個人的には平成12年度から「JFA審判インスペクター(現1級審判インストラクター)に任命され全国各地で開催される各種大会やリーグ戦に派遣され任務を遂行することが生活の一部となりました。
私が駆け出しのころ1級になられご一緒した審判員の方が大きく成長され現在もJリーグで審判をされている姿をテレビで拝見すると嬉しくこみあげてくるものを感じます。
当時、アッセッサーの活動と同時にJFAマッチコミッショナーの活動も行っていたのでJFLとなでしこリーグの会場にもよく行かせてもらいました。当時からなでしこリーグに加盟している地元「湯郷ベル}の全盛期で毎月のように美作には行かせていただきました。当時、中国大会を含むアセッサー対応で年50試合以上の会場に出向いていました。思い起こせばきついこともありましたが楽しい思い出として残っています。
現在は行われていませんが、平成19年から始まった「JFA地域審判トレセン事業」では年8回JFAから講師の方をお招きし審判研修を行う調整役(コンタクトパーソン)として審判員・インストラクター受講の方々と1年間行動を共にし思い出に残る1年間を過ごしました。
定年により平成27年16年間の1級審判インストラクターを退任し現在は2級審判インストラクターとして主に岡山県内で活動しています。
令和2年からRA中国理事としての活動は記述の通りですが、サッカーの審判という世界に入らせていただいて以来現在までサッカーを通じて多くの方々とお目にかかり交流をさせていただき計り知れないほどのことを学ばせていただきました。多くの方々とお知り合いになれたことが全て私の財産と思っています。これもサッカーの審判という世界での活動による最大の恩恵とも思っています。もし私が会社の仕事 だけで審判に関わていなかったら、これほど多くの方々との出会いや経験は出来なかったと思っています。審判という世界には感謝してもしきれません。
令和6年8月20日
岡山県倉敷市中庄74-6
木 村 孝 行