感謝・一期一会の
審判活動
鳥取県サッカー協会
2級審判員 中本万虎平
4月下旬、鳥取県の審判関係者の方から電話がかかってきました。中国RAのホームページに掲載するので、自身の審判活動について、記事を書いてほしいという依頼でした。自分自身の人生を振り返ることもあまりしないので、貴重な機会だと思いその依頼を快諾しました。
まず、初めて見る多くの方が、私の名前である「万虎平」という文字を見てなんと読むのだろう。そう思ったのではないでしょうか。これを初対面でフリガナなしで読めたことのある人は、私が出会ってきた中で記憶が正しければ1人もいません。笑
この名前、「まこへい」と読むのですが、祖父がプロ野球の阪神タイガースが好きで、どうしても孫の名前に「虎」という文字を入れたかったようでこのような名前になったと聞きました。初めて会う方に、名前を聞かれたら必ず1回は聞き返されること、名前を見られて「なんて読むの?」と聞かれることは、小さいころから日常茶飯事でした。もっと長くなりそうなので、名前のことはこれくらいにしておきます。
☆審判活動を始めたきっかけ☆
審判活動を始めたきっかけは、2014年のFIFAワールドカップブラジル大会の開幕戦を西村雄一さん率いる日本人トリオが務めたのを見たことがきっかけです。当時、サッカー王国ブラジルで開催されるワールドカップの開幕戦を日本人が務めることを同じ日本人として、誇らしげに思うと同時に、この人たちかっこいいと思ったのを今でも覚えています。
次の日には先生に「審判をしたいです」。と言いに行っていました。ただ当時は、中学生や高校生が本格的に資格を取って審判をするという風潮が今より圧倒的になく、先生も自分を気遣ってなのか、「今は選手を一生懸命やりなさい」と言われてしまい、諦めたのを今でも覚えています。当時の自分は携帯なども自分で持っていなくてどこで資格を取るのかを含めて、情報が取り入れられず、またできたらいいなーくらいだったので、そこで審判を始めるということはしませんでした。
☆審判が楽しかった高校生☆
そして中学校でもいろいろありましたが、高校に進学することもでき、サッカー部にも無事入部できました。そこで1つの転機がありました。恩師である關淳一先生に出会ったことです。
もう1つ大きかったことが帯同副審制です。当時、高校生のリーグ戦の副審は、同一会場で複数試合あるときは、その試合のチームでない高校の生徒がしなければならず、また自分たちの所属しているレベル(当時の私の高校は3部【1番下のリーグ】)にかかわらず、割り当てられた試合をしなければならなかったことです。思わずそのチャンスに、資格のことも何も知らない自分は「やりたい!」と手を挙げました。しかし、当たり前ですが、4級以上の資格が必要だったので、次の4級講習会まで待たないといけませんでした。
取得してからというもの、何せ審判をやりたい人がいないのと、キーパーだったのですがあまり上手ではなく、試合でメンバー入りすることも稀だったため、1年生のころはほとんど自分がリーグ戦の副審をしていたように思います。自分が旗を上げると試合が止まったり、ラインギリギリのところを見分けるのが楽しく、もっと審判がしたいと思っていました。しかし、この当時はサッカーをする方が楽しく、リーグ戦以外では全然してなく、メインが選手で、審判も楽しいのにみんながやりたがらないから審判をするという感じでした。
そんな感じで時が流れていた、高校生2年生の8月。關先生に職員室に呼び出されました。なんかやらかしたかな?と思いながら行くと「今度、11月に鳥取でO-60の大会があるんだけど行ってみない?」というお話でした。「よかった~怒られることじゃなかったんだと」ホッと胸をなでおろしたと同時に、やっと本格的な試合ができるんだと思い、二つ返事で「行きます!!」と言いました。
迎えた11月。本格的に審判をやっている同年代の人たちと初めて会うことに、緊張が半分、ワクワクが半分でした。初めての主審の試合では今でも覚えています。当時競技規則を1ページも読んだことが無かったので何もわからない。ファウル、イエローカードの理由すらわからない。振り返りで、「何でイエローカードを出したの?」と聞かれてもわからない。そんな状態でした。それが、すごく悔しくて、その大会のすぐ後に、先生に「上級を目指したいです。ルールを覚えたいです」と言いました。
先生は自分が持っていた競技規則を「あげるからしっかり読みなよ」と競技規則をくれました。また更に、その大会ではU-12の全国大会に行くかどうかの選考も兼ねていたようで、それを後から知り、「来年は絶対リベンジする」と心に強く誓いました。そこから、毎日朝読書の時間には競技規則を読むという習慣が始まりました。クラス、サッカー部員を含め、周りのみんなからは不思議がられました。そして、迎えた3月には3級に昇級することができました。しかし、昨年と同様、11月に山口で行われた選考を勝ち抜くことはできず、全国大会に行くという目標は叶いませんでした。その全国大会の決勝をテレビで見ていて、悔しさのあまり、テレビの前で泣いていたことは今では笑い話ですが、当時は本当に悔しかったです。しかしその反面、試合を見ながら、「もっと上級に上がってJリーグの審判になってやる」と強く決心しました。

☆いろんなことを経験した大学時代☆
無事3月に高校を卒業して、岡山のIPU・環太平洋大学に進学しました。本音を言うと関西の大学に進学したかったのですが、親と先生に説得され進学しました。そこで無事サッカー部に入部ができました。しかし待っていたのは、今まで経験したことのない、プレースピードのサッカーでした。入って2か月でファジアーノ岡山(当時J2)のTRMを経験させてもらったのですが、ついていくことすらままならず、心が折れかけました。
当時は右も左もわからない。縁もゆかりもない岡山県。知り合いもいない。コミュニケーション能力も高い方ではなく、どうしたらいいか分からず、体調を崩し1週間寝込んだ時期もありました。しかし、寮やクラスでできた友だちがそんな悩みを笑い飛ばしてくれた(もちろん友だちはサッカー部員でもなければ、ルールもある程度くらいしか理解していない友達でしたが)おかげでそして次の試合へのモチベーションが高まり、1年間続けることができました。そんなこんなで、大学2年生になりました。そこで待っていたのがコロナでした。授業もリモートになり、外出規制があり、試合も延期もしくは中止となりました。しかしそこでもまた、大きな出会いがありました。岡山県1級審判員・堀格郎さんとの出会いです。
初めて生で見る1級審判員に恐れおののいていた僕ですが、そんな県外から来た僕にも丁寧に指導をして下さり、鳥取県で受ける2級昇級試験サポートもしてくださいました。そして、無事、大学2年生の10月に2級昇級試験に合格することができました。
2級に昇級したのも束の間。1月に、大学のサッカー部のコーチの方から、デンソーカップに行ってみないか?というお話が届きました。前年までは、1級の方がやられていたみたいなのですが、その年から各地域の2級の学生審判員で裁こうとなった初年度で、また本来行くはずだった方が行けず、そのお話が流れてきた形でした。高校時代に経験した、全国大会に行けなかった悔しさもあったので、やっと全国大会に行くことができると思い、二つ返事で「行きます」と言いました。
どれくらい重要性がある舞台なのか分かっていない、2級に上がりたての自分が行くのはあまりいいことではなかったと、今でも思っています。しかし、ここで出会った全国の審判員仲間、経験したことは今でも、すべて貴重な財産です。その当時の、何も知らなかった自分の積極性に感謝したいです。
さらにありがたいことに、その翌年も派遣していただきました。快く送り出してくださった、大学のサッカー部のコーチ、中国サッカー協会、中国大学サッカー連盟の皆様には大変感謝しております。
☆中国アカデミー4期生☆
大学4年生の9月。中国アカデミー4期生の選考試験が実施されると耳にし、これもまた自分から、県協会にアカデミー4期生の選考試験を受けたいですと連絡しました。そして選考会を受けられることになり、11月、山口県に試験を受けに行きました。12月。結果が届いて無事に4期生として合格することができ、翌年4月から活動が始まることになりました。
そして2023年4月から活動が始まったのですが、自分に悩むことが多かったように感じます。審判員としての前に、人として当たり前にできないといけないこともできない。しかも4期生5人(途中離脱1人)の中で最年長であるのに、遅刻をする。連絡ができない。提出期限が守れない。良くも悪くも感情が顔に出る。思ったことをすぐ言ってしまう。人の意見を受け入れられない。などなど。最悪の状態でした。
でもそれをよくよく考えてみると、全部自分よがり、全部自分中心な行動になっているからこそ起こっていることだなと、活動を通して気づかせてもらうことができました。
また、アカデミーマスターである宮部範久INS、アカデミーINSの内田利幸INS、森近和代INS、藤内一寿INSには、本当にたくさんの迷惑をおかけしました。本当に最年長かと思うくらい他の4人と比べてできることが少なく、それでも自分のことをものすごく理解しようとして下さり、そこで自分に足りていないものを、サッカーでもサッカー以外でも厳しく指導していただきました。でもその厳しさも優しさであったと確信しています。アカデミーで指導されたことが実際の職場での生活やプライベートにも生きていると思いますし、そのおかげでできることも少しずつ増えてきたのかなと思っているからです。
そして、数々の苦難や困難からも守って救っていただいたからこそ、今こうして審判活動ができていると思います。本当にありがとうございます。
そして同期である、裕太、あるが、なっちゃんには、サッカー以外の場所で本当に労力、気力を使わせてしまい、サッカーに集中できない環境にしてしまって申し訳なかったなと、今でも思っています。年下なのにすごく頼もしかった。最初はそれに甘えていたのだと思います。でも途中で仲間だけど、1人1人が高めあうライバルだと気づかせてくれた。大切なことを教えてくれたと思っています。本当にいろんなところで、フォロー、サポートをしてもらっていました。感謝してもしきれません。本当にありがとう。最終的にはこの4人で卒業できて本当に良かったなと思っています。


☆終わりに☆
小さいころから現在に至るまで、自分自身で大切にしている言葉が3つあります。
「感謝」「一期一会」「自分でやると決めたことはやり遂げる」
最初の2つは小さいころから、母親に口酸っぱく言われていた言葉です。この言葉を教えてくれた母親のことは、昔は嫌いでしたが今ではすごく尊敬しています。
最後の1つは、昨年亡くなった祖父がくれた言葉です。
サッカーに限らず、1人1人の方に出会ってそれぞれの方から学ばせてもらえたおかげで、今の自分がいると思いますし、自分がやりたいといったサッカーをここまで続けてきたからこそ、より多くの方と出会えたと思っています。
そして今まで自分に出会ってくださった方には、本当に感謝しています。これからもよろしくお願いいたします。

その感謝の気持ち、出会った方1人1人を大切にする気持ちは、決して忘れることなく、大好きなサッカーを続けられるということにも感謝し、審判活動に邁進していきたいと思います。
中本万虎平