審判活動を振り返って
広島県JFA1級インストラクター
岡野尚士
皆様こんにちは!
広島県のJFA1級インストラクターの岡野尚士です。
今回南さんより依頼をいただいて寄稿させていただくこととなりました。宜しくお願い致します。
まずはプロフィールになります。(完全個人情報になりますので取り扱い要注意です!)
氏名 岡野 尚士 (おかの ひさひと)
生年月日 1963年12月26日
(61歳/2025年11月1日現在)
出身地 広島県広島市
履歴 広島市立船越中学校~広島県立広島国泰寺高校
1982年4月東海大学入学
1986年3月東海大学 卒業
1986年4月 松下電器産業(現パナソニック)株式会社入社
サッカー歴 中学校・高校・大学・社会人(当時は日本サッカーリーグ)の計13年間MF・DFとしてプレー。
高校3年時 広島県高校選抜で滋賀国体出場
大学4年時(1985年) 関東大学春季対抗戦にて初優勝。総理大臣杯初出場ベスト4
同年関東大学サッカーリーグ2部優勝 1部昇格
(大学同期には審判員としては先輩のワールドカップレフェリー上川徹さんがいました)

松下電器産業サッカー部(ガンバ大阪前身)ではJSL1部・2部にてプレー
(所属時には永島昭浩さん、本並健司さんなどがいました)

審判歴
1993年3月 3級審判員資格取得(Jリーグ審判養成コース3期生受講開始)
1993年12月 2級審判員資格取得 (関東協会所属・・・神奈川県)
1998年12月 1級審判員資格取得 (関東協会所属・・・栃木県)
2013年12月 1級審判員引退 (中国協会所属・・・広島県)
<国内での主な試合>
2013年引退まで J1・J2リーグ 160試合以上副審として担当
<趣味> まずはサッカーです。 あとはゴルフ・音楽鑑賞(特に洋楽・K‐POP)
孫と遊ぶ(ありきたりですね)
<好きな言葉> 坂本龍馬の言葉で
世の人は我を何とぞ呼はば呼べ 我が為す道は我のみぞ知る
以上すこし細かく書かせていただきました。
では本題に入ります。
タイトルにある「審判活動を振り返って」について思いを書かせていただきます。
審判を始めるきっかけはプロフィールにもありますが現役引退後社業に戻った東京勤務当時Jリーグ審判養成コースにガンバ大阪より推薦をもらい会社側の了承をいただいて始めたのがきっかけです。
そのころサッカーは趣味程度で東京都社会人リーグ1部所属の「エリースFC」でプレーしていましたがJリーグ開幕を控えもっと本格的にサッカーの世界に関われないかなとざっくりと思っていたところ渡りに船でしたのでありがたく二つ返事で応募しました。
3期生のメンバーは広島県から皆さんよくご存じの山西博文さん、神奈川県から扇谷健司さん(現JFA審判委員会委員長)の3名でした。
始めた当初はホントに下手くそで自分のレベルを棚に上げて選手からの不平・不満・文句にすぐ頭にきて「なんでこんなに文句を言われんといけんのか!」「やっとられん!」とマイナスなことばかり思っていました。
そこからいろいろな研修会や大会に参加・派遣していただいてから全国の審判員の方が本当に真摯にサッカー・審判活動に取り組んでいるのを目の当たりにして「よし、ひとつ本気で審判に取り組んで成れるものならワールドカップに審判員で出たい!」と思うようになりました。
勤務上転勤族でしたので審判活動を始めたときは神奈川県所属、次に少しだけ千葉県、その後は栃木県、福岡県、最後は広島県と5県3地域協会に所属し1級昇格時は関東協会・栃木県所属でした。
全国探してもこれだけ所属が代わった審判員はそうそういないのではと思います。
2級審判員として関東協会で活動する中本当に多くの失敗を重ねて(時には指導の先生からどやされたりもありました)1998年1級受験年齢最終年(35歳)で何とか1級審判員に合格できました。
Jリーグで思い出に残る担当試合は多くありますが
●J1リーグセレッソ大阪VS名古屋グランパス戦でゴールの判定をゴールライン上で確認しきれなかったにもかかわらずゴールインの判定をして選手に囲まれ、その後の研修会でこの場面が取り上げられペナルティーとして割り当てを2か月干されたこと
●2003年J1開幕試合の浦和レッズVS鹿島アントラーズ戦で浦和のアルパイ選手の乱暴な行為を確認し退場としたこと(主審は栃木県の吉田さんでした)
●写真にありますがJ1リーグ121試合目担当で120試合表彰をしていただきその試合は広島県の松村さんと一緒に組めたことなど、やはり大きな失敗や重大な判定や記念試合が特に印象に残っています。

参考になるか解りませんがJ副審担当当時自分で工夫していたことは
❶オフサイドラインを正しくキープするためにサイドステップをできるだけとる
❷縦への早い攻撃に遅れぬよう体の向きやステップを考えてスタート良くスプリントで負けない
❸視野をできるだけ広く取れるよう間接視野で見ながら主審をサポートする
❹オフサイドポジションの選手を頭に入れてボールの出所に(けられる瞬間に)意識を持っていく
❺間違いは素直に選手・ベンチに謝って次間違えないよう集中する などが挙げられます。
もちろんそのためのトレーニングも仕事が終わってから頑張っていました。
残念ながら国際審判員にはなれませんでしたのでワールドカップに出ることは夢の夢で終わりましたがやり切った感はあります。
そんなこんなで始めた審判活動でしたが2013年の引退まで勤め上げられたのは1998年1級審判昇格同期のメンバー10名を中心に(今でもホントに仲がいいんです!)多くの試合で組ませていただいた全国の審判員の方々、様々な場面で指導いただいた先生方、主にお名前を挙げればまずは養成コース講師の東京都の安田先生、神奈川県の氏平先生、栃木県の十河先生、福岡県の上野先生、広島県の岡段先生など数え上げれば切りがないほどたくさんの方々のおかげです。本当に感謝申し上げます。

現在はJFA1級インストラクターとしてJ2担当アセッサー活動を中心になでしこ1部担当若手レフェリーのインストラクターや中国協会ではプール審判員のアセッサーなどをさせていただいています。
61歳ですので指導者としてまだまだ若手?の部類に入るかもですが引き続き微力ながら日本サッカー発展のためにお手伝いできればと思っています。
中国協会でも時間の許すかぎり活動を頑張ってまいりますので何卒よろしくお願い申し上げます。
最後に乱文・乱筆となり読みにくいところも多々あったかと思いますが最後までお読みくださりありがとうございました。
広島県JFA1級インストラクター
岡野尚士